おめでとうと言えない
「今日は誕生日です!」
「わーおめでとう!」
突然だが私はこのやり取りが苦手だ。
気軽にコミュニケーションを取れる時代、顔も知らない人が誕生日を迎える場面をしばしば見かける。
そんなもの生まれた以上当たり前なのだが、私はこの一連の流れが不気味で仕方がない。
理由と思しきものはものすごく自分勝手で、誕生日だと宣言する側は、暗に「ほら祝えよ」と遠回しに脅迫しているような気がしてしまうからだ。
また、おめでとうとコメントを残していく側にも「大した付き合いでもないのに本当にめでたいと思っているのか?」などと余計な邪推が入る。
つまり、私の中では得も知れぬ人が誕生日を迎えたところで何がめでたいのだと感じているのだろう。
もちろんめでたいと感じることが全く無い訳ではなく、生活の範囲内である家族や恋人は別である。
このことから、自分はこの誕生日、あるいはおめでとうという気持ちをかなりハードルの高い感情として扱っているのが見て取れる。
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(追記)
先日令和を迎えた「おめでとうムード」によって1つの答えが見えた。
このおめでとう達は、本来感情に重きを置く言葉のはずなのに、感情の乗らないインターネットで発信することによって得体のしれない言葉に生まれ変わってしまっていたのだ。
自分がおめでとうという気持ちをハードルの高いものとして扱っている訳ではなく、おめでとうの仮面を被った何かが発信されることの不気味さが、苦手意識の正体だったのでは?
よくよく振り返ってみると、結局仲のよい友人の誕生日などにそう思っていてもなかなか「おめでとう!」と送らないのにも合点がいくのだ。
ほんとうは言われる側も言う側も最初に書いたような思惑なんてものは全くなくて、感情の見えないこの「おめでとうのようなもの」のせいで歪んだ視界になっていたのだと、今なら思う。己の心の矮小さを恥じるばかりだ。
ひとつ苦手な項目の所以が解消された令和初日であった。
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実はこの記事は前々から書こうとしてはいたものの、上手くまとまらずに温めていたものでした。追記の所との時間差およそ6ヶ月。
こうしてはっきり書けると、少なくとも6ヶ月前よりは気づき力がアップしているのかなと少し嬉しくなりました。
やっぱり気持ちは直接伝えたいなとほんのり思います。