ゲンガーとスライムとパラディンズ

思ったことのアウトプットの練習や、日々のことを書くかもしれません。要するに雑記。

人間万事塞翁が馬

という言葉がある。

 

この先の未来は誰にも予測できない、禍福は常にどうなるか分からない、といった意味だそうだ。

 

2020年はまさしくそんな年であったと思い、このタイトルにした。

幸せの在処は過去に偏る傾向があると自負しているので、まだ直近であるこの年は果たして幸か不幸かまだ判断が付かないので、そういった意味でも塞翁が馬だろう。

 

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2020年はいきなり、長期入院から始まった。

結核だった。丁度新型コロナウイルスが話題に上り始めていた時期でもあったので当時は「もしや・・・」と覚悟もした。

ここで、不幸だと思った。転勤して憧れだった東京生活でもあったし、当時見通しのたたない長期入院で人事異動が囁かれたからだ。

 

精神面でも、最初の2週間ほどは非常に辛かった。隔離病棟という閉鎖された空間は、まるで世界から隔絶されて外で何が起こっていても関係ない、みんなから仲間外れにされている錯覚さえ覚えた。

 

選択、行動の末会わないのと物理的に会えないとでは天と地ほどの差を痛感し、心が押しつぶされる寂しさに襲われた。入院期間中、友人がお見舞いに来てくれた時は涙した。

それ以来、会える時に会う、が自分の信条として芽生えたと思う。

 

およそ1ヶ月半の入院により完治には至らないものの、現代医療により無事寛解した。現在では後遺症なども一切なく、健康に過ごしている。

 

 

退院してからはコロナウイルスが猛威を奮い、緊急事態宣言まで発令されたのは記憶に新しい。ここで自分は、幸運だったのかもしれないと思った。

隔離されていたとはいえ、安全な場所で過ごし、健康な生活が提供されていたからだ。

給与も傷病手当金で保障されていたため、尚更だろう。

 

 

と喜んでいたのも束の間、5月半ばに衝撃が走った。復帰した職場で、結局転勤を命ぜられた。

転勤先として告知された場所は以前勤務していた店舗。周りは知っている店舗だから気持ちは楽でしょうと言ったが、全くそうでなかった。

労働環境は苛酷で、何度も転職を考え、メンタルもやられかけた場所だ。

当時、心療内科に通わなかった自分が偉いと思う(?)

そう考えると絶対に戻りたくなかった。また感情を抜きにしても、東京での労働環境と以前の勤務先での労働環境で同じ給料とは、全く納得がいかなかった。

実情を知ってしまったとでも言おうか。

そして極めつけが管理が雑すぎる人事だ。

 

話を要約すると、入院で抜けた分の人員を以前の店舗から補てんしたのはいいけど、補てんしたら今度は以前の店舗が人手不足になっちゃったからやっぱり君以前の店舗に戻って!というあまりにもその場判断がすぎる内容だった。

自分も東京に赴任してきて半年もたっていない状況で、さすがに理不尽だと憤りを感じたのを今でも覚えている。

業界自体も衰退の一途を辿る一方であったし、辞めるには十分すぎる動機だったと思う。

 

そんな自身の事情と、恋人の事情(心療内科への通院~社会復帰)を踏まえて、思いきって仕事を辞めた。恋人もこれ以上振りまわしてはいけないと思った。

 

職を失った以上、不幸だと思った。それ以上に、人生どうなってしまうのか不安だった。

 

 

そして6/15付けで退職し、恋人の実家のある群馬で暮らすことになった。

「そういう事なら2人で戻ってきて、いちからやり直したら」と、恋人の母親が提案してくれたのだ。

幸い恋人の母親との関係は非常に良好で、「東京では息子の面倒を見てくれて感謝しています」というような事まで言ってくれて、今でも週1~2回顔を出しては夕飯を持ってきてくれたり、どこか買い物に連れていってくれたりと、世話を焼いてもらっている。この時、幸せだと思った。

 

最初は生活がどうなるか全く見通しのたたない群馬であったが、暮らし始めてしまえば思いのほか快適で、まさしく住めば都といった具合だった。

友人が沢山いる都心も絶望的に遠いわけではなく、経済的に余裕がある時期は問題なく赴ける。

 

夏~秋口から徐々に就活を始めた。

就活を進めていくうちに運転免許が不可欠だと思いしり、就職のためにも教習所に通い始めた。

生涯で自動車を運転するなど絶対にあり得ないだろうと自負していただけに、教習所に通っているという自分が今一番驚いている。

教習所の料金も安くはないが、恋人の母親が「私たちの老後までにのんびり返してくれたらいいよ」と工面してくれた。お世話になりっぱなしである。

 

 

 

これが2020年の出来事であった。

まさに自分史上一番の激動の年だったと思う。

 

 

 

余談ではあるが、職を失っても音ゲーは相変わらず続けている。

「こんな状況なのに本当は音ゲーなんてしてる場合じゃないよね」と先日友人に零したのだが、友人は言葉につまることなく「ここまでやってきたら音ゲーだって人生の一部だし、やり続けていたって大丈夫だと思うよ」と言ってくれた。

正直ものすごく救われたけど、内心で凄く嬉しくて、上手く感謝の気持ちを伝えられたかまでは覚えていない。

 

 

群馬で暮らし始めた事が幸か不幸か正直まだ分からない。

転勤を甘んじて受け入れ、前の店舗で働いていた世界が気にならないといえばウソになる。

 

けれど、時間が経って「ああ、あの時は確かに幸せだった」と思える時がくるように、2021年は群馬での暮らしを豊かにしたいなと、抱負にするのであった。