ゲンガーとスライムとパラディンズ

思ったことのアウトプットの練習や、日々のことを書くかもしれません。要するに雑記。

遊んだ記録・1

少し前の記事で記憶と記録について語った。


その刺激と、先日楽しいオフ会を過ごした事を忘れてしまうのはもったいないなぁ、という気持ちが湧きでたので、今回から複数人で遊んだ、或いは恋人と遠出をすることがあったら記録に残そうと決意した。


写真に残すのも手だが、それだとカメラロールを辿る作業がうっとおしく、なおかつ写真を取らなかった部分が抜けてしまうことも配慮した結果、今回このブログを活用することにした次第だ。


ただし記憶を補助するためだけの単純な記録なので、誰と誰がどこで何をした程度に記述は収めるつもりだ。


最低限、1年は続けていきたい(希望的観測)



という訳で早速、先日のオフ会について記録に残そうと思う。


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遊んだ日にち:1/6


遊んだ場所:れたすのしん邸


遊んだ人:れたす、リカオンさん、リョクさん


内容:みんなで料理をしたり、Switchでゲーム


詳細:料理は買い物から始まり、なすのパルミジャーノフォンダンショコラを作った。youtubeポップンの曲を流しながら、2時間ほどで完成。

Switchは料理後、スマブラマリオパーティスマブラは用意したコントローラーがすぐに電池が切れてしまい、あまり遊べなかった。

そうこうしているうちに22時がすぎ、解散。




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このような形で残していきたいと思う。

初回なのでTwitter連携はするが、今後はただの記録になるので、連携はせずに進行しようかなというところだ。






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忘れてしまうことの切なさを少しでも軽減するために始めてみました。


このブログが自分にとって沢山の思い出の場所になりますように。


あけましておめでとう

週一程で更新していけたら、という目標を早くも破り、あぁ自分は自分なのだなということを強く感じた年明けをむかえてしまった。


ブログの存在を忘れていた訳ではないのだが、どうも上手くまとまらないので破棄してしまった記事が2.3生まれては消えを繰り返していた次第だ。それでも更新出来ていないことには変わりないが。


さて、年も明けたことだし、抱負を掲げようと思う。

昨年はとにかく動かない年だったな、と振り返る。友人との交流は1年という年月の割には指折り数えるほどで、気が置けない友人としか遊ばなかった気がする(しっかり振り返れば本当はありそうな気もするが)。

大きな旅行もしていないし、休日も家で過ごすか近場ですませていた。


なので、今年は意識的に動くことを目標にしたいと思う。

交友関係はもちろん、行動全般でだ。


だいたいこういった抱負は春をむかえる頃には忘れてしまいがちだが、そうはならないようにしたい。具体的な方法は不明だが。。。


ということで本年もどうか優しく見守って頂ければと思う(何様だ)



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ということであけましたね。

平成最後という言葉はあまり意識はしていないので未だに他人事です。

昨年は引越しも落ち着き暮らし方もなんとなく掴んできたので今年は動く年にしたいです。


それでは。


記憶の死

人間は二度死ぬという言葉がある。

肉体による死と、その後皆から忘れさられることによる、忘却の死だ。

私はこの言葉に非常に惹かれていて、いまでは肉体の死よりも忘却による死のほうがよっぽど怖いのではと考えることもある。


さて、さっそく本題なのだが私ののうみそはどうやら記憶の死が多いようなのだ。

記録にあって記憶にないのであれば、記録を見返すことで蘇る記憶もある。

しかし、記録にも記憶にも無いとなると一気にお手上げ状態になるのだ。

たまに、その時を一緒に過ごした人の証言によって仮死状態にあった記憶が生き返ることもあるが、1人で過ごした場面に関してはそれすらもないのでそのまま死を遂げることになる。


この「無かったことになる」というのはとても切ないものだと感じていて、裏を返せばその時感じた気持ち、過ごした時間すらも無駄にしてしまったような非情さを己が背負う。

場面を共にした人からの証言でも蘇らなかった場合はなおさらだ。


そのくせ、とっくに忘却の彼方へと去っていったと思っていた記憶が、なんの前触れもなく目の前に現れるのだから仕方がない。

この間は職場の帰り道、自転車を漕いでいたら突然小学生の頃の同級生の名前がさっと頭をかすめたこともあった。

なぜ今なのだと疑問になるばかりのタイミングで、どうでもいい記憶が生き返る。


しかし忘れたくないような思い出は無情にも死んでいき、新しく生き返ったゾンビのような記憶が脳内の物理メモリーを圧迫しているような気がしてならなくて、それをどうかしたいのだがどうしようもない日々を送っている。一体なぜなのだろう。。。


最後にひとつ小話。

わたし自身、専門学生時代そのものの記憶があやふやで、その頃だけやっていたSNSが先日発掘された。

読み返してみるとどのやり取りも全く記憶になく、いくら掘り下げても脳みその記憶と合致することはとうとう無かった。

記録は確かにお前だと言っているはずなのに、記憶は違うと言っているようで、その感覚がなんだかこそばゆくて面白かったのを覚えている。

記憶の死は記録があればなんにでもなるのかもしれない。



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最近「あの時こうだったじゃん!」と言われ色々忘れてるなぁと感じた近頃。

大切な思い出は形にもしっかりしたほうが、振り返ったときの充足感がもっともっと感じられるのかなぁと思いました。


みなさんは突然どうでもよいはずの記憶がふっと蘇ること、ありませんか?



それでは。

お客様目線

仕事柄、こういった言葉を上司に投げかけられることがしばしばある。

しかし、この言葉がどうにも苦手だということが分かった。

もちろん、お客様の視点に立てない訳ではない。ただ私の場合、少々ずれているのである。

自覚しているだけまだマシだとは思いたいが、接客や対人に対しての不満が極端に少ないのだ。何かの不慮の事態(飲食店なら注文の料理がこない、友人に貸した私物が事故で傷んだ、など)なら尚更で、こういった場合、相手に悪意が無い限りはまず怒りというものは湧いてこない。

なので、「お前がお客さんだとしてこんなに待たされたら嫌だろ!?」などという説教は私にはまったくの逆効果で、即答でNoと答えられてしまうのだ。

しかし上司がそんな返答を望んでいるわけもなく、欲しい答えがYesだという事くらいは分かるので即答でYesと答える。望んだ返答を返さないと余計に火に油なのは明白だからだ。

 

人に対して怒らないなんて良いやつじゃないか、と捉えられることもできるかもしれないが実はこの性格も少々厄介だったりする。

というのも、行動に対して自身が不快に思わないがゆえに、しらず相手にとって不愉快な思いをさせてしまうということが起きてしまうリスクがひとよりも高いのだ。

なので予想外の叱咤を受けるとそこで初めて「あ、こういうのは一般的には怒りえるポイントなのだな」と一度地雷を踏まなければならないのだ。

 

実は一度、出先で預かっていた彼氏の財布を無くしたことがある。(その後すぐに思い当たる場所に引き返してなんとか手元に戻った)

その時に大層なお怒りを受けたのは今でも鮮明に覚えていて、申し訳ないと同時にこの人よりズレているという事を自覚した。

この時にもやっぱり「財布なんて大事なものなくされたら誰だって怒るでしょ!?」と言われてしまったのだが、この時頭の中でいくらシミュレーションしても怒るという感情が出てこなかった。そのシミュレーションで頭を覆ったのは一面の「仕方がないよ」という感情と、「キャッシュカードとかの再発行ってどうやるんだろう・・・・?」といった財布の復元方法の思案であったのだ。違った意味で非情である。

 

もちろん怒らないわけではない。悪意を感じる行為(わざと私物を壊す、など)などははっきりと不愉快だし怒るので安心してほしい(?)

 

と言った具合に怒る、不愉快という分野に関して少々かけ離れているような部分があるので最近は「一般的に」を念頭においてアクションをするように心がけている日々である。

この「一般的」も難しいが、ここでは大多数のひとがそう思うであろう、という予測の意味で読み取ってもらえれば幸いだ。

 

 

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簡単にまとめると他人に甘く自分にも甘い、という現状が浮き彫りになりました。

 

 

例えば友人の遅刻、みなさんは気になりますか?

 

 

それではまた。

 

 

ゆっくりと歩み寄る

朝一番の気温が、布団から出る事をためらうようになってきた。

冬の訪れを予感させるような布団のぬくもりと、相反して感じる部屋の冷たさがなんとも季節を感じられる。

思えば、今年の夏はまるで神様がさいころを振って出た目で天気を決めたような、まさしく出鱈目と言った季節だったのが強く印象に残っていた。最高気温が真夏日かと思えば次の日には20度近く、その落差がニュースにもなったほどだ。その気分やな神様にもうちょっとなんとかならないものかと思いつつ気温の安寧を願っていた。

 

そんな願いが通じたのか、今年の冬の導入はとても好きだ。

毎日過ごしやすい気候が続くなか、テレビの中の人が言う。今日の最高気温は気がつけば少しずつ低くなっていき、激しい落差もない。

夜の冷え込みもなんだか優しささえ感じられ、「もうすぐ冬が近づいてますよ~、防寒の準備をしてくださいね」とさえ言わんばかりに、ゆっくりと、しかし確実に寒くなっていく。

一方で私は、季節の優しさをよそに未だに職場用の厚着をまだ用意していないというていたらくが続いている。

まだ少し優しい冬の入り口であるが、ここから防寒具無しでは厳しい気温になっていくだろう。というのが分かっているのにどうにも前もって準備というものが出来ない。

性分なのか、きっと優しい冬さんにお叱りを受けたところでようやく仕度をするのだろうなと我ながら他人事のようにこの時期を過ごしている。

 

とはいえ、冬のお叱りは辛いものがあるので、もう少しだけ優しさに甘えたら冬に応えようと自戒するのであった。


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ゆっくりと近づく季節がなんだか嬉しくて、久しぶりに四季っていいなあと思いながら通勤しています。

激動もスリルがあっていいものですが、寄りそうかたちは優しさがあっていいですね。

 

それではまた。

 

てろり、てろり

この記事を書いている今、マクドナルドで食事を済ませている。
アルバイトとは違う、お客様係なる札を付けた店員さんの接客は段違いに気持ち良く、思わずこちらも笑顔になった。
きっとこの非常に丁寧な接客が出来る彼女の真の仕事はクレーム対応なのだろうと、同業のよしみから察する。
「とても素敵な接客ですね」と伝えたかったのだが、少し気はずかしい思いがこみ上げ、伝えられなかった。
仕事とは言え、お客様に褒められることは嬉しいことに間違いない。少なくとも自分はそうだ。
次回同じ人に当たった時は伝えようと決意したところで注文の品が手に届く。
店内席をざあっ、と見渡すとなにやら楽しげに会話する女子高生2人組、コーヒーを飲みながらPCを睨みつけるサラリーマン、談笑を楽しむおば様方、色々な人が席を埋めていた。

自分もこの中の一人になる。
対面の眼鏡をかけたちょっと素敵な奥さまはどうやら少々時間をもてあましているようで、スマホをちらちら見たり、プレートに乗った紙の広告を読んだりなどしている。
誰かと待ち合わせまでの時間を潰しているのだろうか。
そんな奥さまに想いを馳せたところで、もしかしたら奥さま以外の人も何か目的があって今ここで食事をしているのだろうかと考えはじめる。
先ほどから私の目は店内にいる人はみんな他人で、いわゆる「モブ」といった感覚で映っていた。
けれども、先ほど綴った奥さまにとっては対面に座っている青年こそ他人で、どうしようもなくどうでもいい対象なのだろうということを勝手に思い知らされる。
ここにいる人、いや街中ですれ違う人全員そこにいる意味があり、そのひとりひとりが主役の人生を送って今私の肩を掠めたのだろうと思うと果てしない感情が押し寄せてくる。

他人なのだけれど、モブではない。
自分含め、その人のストーリーが必ずついて回ると思うと、何となく人類は多すぎるなあと何故か感じたところで、思考が疲れてきた。
先日述べた着地出来ない状態である。
なので稚拙ながらこの状態で投稿しようと思うが、どうか許してほしいところだ。
数を重ねて上手くなろうとおもう。

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私の好きなアーティストの曲に街中ですれ違う人を「出会いと別れを瞬間で行っているよ」という歌詞があるのですが、もしかしたら会話をしてないだけで自分も奥さまに出会って別れを告げていたのかなーと思うと、面白いですね。

ではまた。

着地失敗

細々と記事を書いていこうと決意したものの、さっそく困ったことになった。


「これをテーマに書こうかな!」「こんな事書いたら沢山綴れそう」

「そういえばこれってこうだな」

といったものは頭のなかで水泡のようにぽつぽつと湧いて出てくるものの、どれも上手くまとまらないのだ。

Aという気持ちに対して書くとするならば何故ならこうだから、で簡潔に完結してしまう。

言うなれば起承転結の転、の部分が非常に下手くそなことに気づいた。

よくよく思い返してみれば、幼い頃は読書感想文がとても苦手だった。○○が○○で面白かった。で文章が広がらない。面白かったものは面白かったのだから仕方ないのかもしれないが。

今ならその面白かった、を細かくほどいていけば良いだけの話なのだが、それに気付いたのは高校生も真ん中のころであった。

その作法が分かってからはある程度こなせるようにはなったのだが、もしかすると、当時読書感想文が書けなかったのは作品に対して没入しすぎていたせいなのかもしれない、とこの記事を書きながら思った。


作品に入りすぎるとその文字ひとつひとつらが世界に感じる。

本という小さな体積に世界が詰まっているのだから、上手く身を遠ざけて読めば全体を掌握出来るのかもしれないが、自分自身も作品に身を投じてしまえば世界を相手に感想を書かざるをえなくなってくる。

その壮大なスケールをなんとか文字にしようとしたところ、果てしない感情があふれ出てまとまらず結果「面白かった」に収束していたのだと思う。

そんなあふれ出た考えがまとまらない悪癖がこの記事を書く際にも現れていて、つまり何が言いたいのか、そこにたどり着けず霧散するパターンが今までであったのだ。

なので、今後はこの弱点を意識しながら、記事全体の連携が取れるように目指していきたいと思う。


みなさんは、読書感想文は得意なほうでしたか?

それではおやすみなさい。