記憶の死
人間は二度死ぬという言葉がある。
肉体による死と、その後皆から忘れさられることによる、忘却の死だ。
私はこの言葉に非常に惹かれていて、いまでは肉体の死よりも忘却による死のほうがよっぽど怖いのではと考えることもある。
さて、さっそく本題なのだが私ののうみそはどうやら記憶の死が多いようなのだ。
記録にあって記憶にないのであれば、記録を見返すことで蘇る記憶もある。
しかし、記録にも記憶にも無いとなると一気にお手上げ状態になるのだ。
たまに、その時を一緒に過ごした人の証言によって仮死状態にあった記憶が生き返ることもあるが、1人で過ごした場面に関してはそれすらもないのでそのまま死を遂げることになる。
この「無かったことになる」というのはとても切ないものだと感じていて、裏を返せばその時感じた気持ち、過ごした時間すらも無駄にしてしまったような非情さを己が背負う。
場面を共にした人からの証言でも蘇らなかった場合はなおさらだ。
そのくせ、とっくに忘却の彼方へと去っていったと思っていた記憶が、なんの前触れもなく目の前に現れるのだから仕方がない。
この間は職場の帰り道、自転車を漕いでいたら突然小学生の頃の同級生の名前がさっと頭をかすめたこともあった。
なぜ今なのだと疑問になるばかりのタイミングで、どうでもいい記憶が生き返る。
しかし忘れたくないような思い出は無情にも死んでいき、新しく生き返ったゾンビのような記憶が脳内の物理メモリーを圧迫しているような気がしてならなくて、それをどうかしたいのだがどうしようもない日々を送っている。一体なぜなのだろう。。。
最後にひとつ小話。
わたし自身、専門学生時代そのものの記憶があやふやで、その頃だけやっていたSNSが先日発掘された。
読み返してみるとどのやり取りも全く記憶になく、いくら掘り下げても脳みその記憶と合致することはとうとう無かった。
記録は確かにお前だと言っているはずなのに、記憶は違うと言っているようで、その感覚がなんだかこそばゆくて面白かったのを覚えている。
記憶の死は記録があればなんにでもなるのかもしれない。
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最近「あの時こうだったじゃん!」と言われ色々忘れてるなぁと感じた近頃。
大切な思い出は形にもしっかりしたほうが、振り返ったときの充足感がもっともっと感じられるのかなぁと思いました。
みなさんは突然どうでもよいはずの記憶がふっと蘇ること、ありませんか?
それでは。